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グローバル経済と現代奴隷制
 ケビン ベイルズ (著) /凱風社

訳者あとがき

 アメリカ合衆国出身の社会学者ケヴィン・ベイルズによる本書の原題は、Disposable peopleである。"Disposable"という単語には、「用が済んだら捨てる」「使い捨てる」「処分できる」などの意味がある。このことばは、紙コップや割り箸、ファーストフード店のプラスチック食器などにこそふさわしく、およそ、「人々」を修飾するには場違いな、本来であれば、使いえない形容詞である。しかし、本書においてベイルズは、まさに「使い捨てられ、廃棄される人々」の姿をつぶさに調査し、克明に描きだしている。そして、人間の「使い捨て」がどのような社会で、どのような条件のもとで可能になるか、そのしくみを各国の文化、歴史、社会構造に目配りしつつ、丁寧に解き明かしている。

 だが、タイトルの「現代奴隷制」という日本語を見て、「奴隷制だって? それはもう、とっくの昔に終わった話なんじゃないの?」と思われた方もおられたかもしれない。現代日本に生まれ育てば、それがごくふつうの感想であろう。ちなみに、ベイルズが厳密に奴隷制と呼ぶのは、次の二つの条件を備えているかどうかがポイントとなる。まず第一に、搾取する側が、人間労働の収益性に着目している、つまり、「ある人が、その労働の対価を自分のものとすることができず、経済搾取を受けている」状態にあるかどうか。そして、第二に、暴力、即ち「搾取状態におかれる際、暴力を受けている、もしくは、暴力による威嚇、恐怖によって囚われている」かどうか、である。

 著者ベイルズは、現代人が「奴隷制は過去の話」だと考える傾向にあると指摘し、それこそが現代奴隷制の存在を看過させる「御しがたい無知」にほかならない、と、繰り返し警告している。たしかに、先進国の住人であろうと発展途上国の国民であろうと、21世紀になった現在においても、自分の国に奴隷制がはびこっているとは、誰しも認めたくはない。だから、奴隷制が現代の、文明の進んだ自分の国にまで持ち越されているかもしれない、などとすすんで考える人はめったにいないであろう。しかも、アメリカ合衆国における南北戦争と奴隷解放宣言により、「奴隷はみな解放された、差別がなくなった」と、単純に信じこませられるような教育も行われていたりする。

 さらに、現代日本においては、「奴隷制というのは大げさで、単に、低賃金で長時間労働をさせられているだけなんじゃないの?」という反応も予測できる。少し理屈をつければ、「人聞が人聞を所有する奴隷制は、非合法であるから、現代には奴隷制は存在しない」ともいえる。そのほか、「貧しい国では重労働くらいは仕方ないから、労働環境を整えるように働きかけたほうがいい」「奴隷にならなければもっと悲惨な生活をしているんだから、衣食住が保証されている奴隷状態のほうがまだマシだ」「奴隷制ということばがひとり歩きしている」「経済搾取が行われているのは事実としても、ここに挙げられているのはほんの数例でしかなく、2,700万人とベイルズが試算するほどの奴隷が本当に存在するのかは疑問だ」などなど、昨今の日本における社会事象や歴史認識の問題をめぐる議論を見聞すれば、現代人としては向き合いたくはないような問題が目の前に突きつけられた際の典型的な反応や応答、反論、異論の類が次から次へと耳に聞こえてきそうである。

 だが、本書を読まれた方なら、お気づきのとおり、こうした反応は、まさに奴隷所有者に固有のものである。実は、この自己正当化のための議論、汚いものにはフタをして見ざる聞かざるの構えを微妙にずらして問題の本質を見ない、自尊心保存欲求を満たそうとする、という風潮こそ、現代奴隷制の温床となるもうひとつの要因でもある。早い話が、現代日本社会でも、日本人ひとりひとりの胸のうちに奴隷制をはびこらせる要因がしっかり内包されてしまっているのだ。

 さらに、こうした精神風土に加えて、現代奴隷制を支える要因として、「人口爆発」「経済のグローバル化」「官憲の腐敗」という三要素があげられる。多数の人が「奴隷制はない」と信じている日本社会が、こうした要素とは無関係であるといえるだろうか。

 少子高齢化に悩む日本人にとって、人口爆発というのは、にわかにピンとこない向きもあろう。地球の人口は60憶を越え、いやおうなく進んでいく経済のグローバル化に伴い、世界は実質的に縮小し、島国日本にも外国人流入はますます増加するだろう。官憲の腐敗は、いうまでもなく、日常茶飯事である。日本の警察の腐敗ぶりについては、ベイルズが本書で指摘している(353〜354頁参照)。現代奴隷制が生い育つ要因はいともたやすくすべて揃ってしまう。ベイルズが披露する調査結果が、日本以外の国のことだからといって、対岸の火事をきめこんではいられない。

 そして、「存在するものは仕方がない、せめて、労働環境を整えてやろうじゃないか」「もしここで奴隷にされていなければ、もっと酷い状態に陥るんだから、奴隷でいたほうが幸せなのだ」とは、アメリカ南部の旧奴隷制擁護論者の議論の中でたしかに聞いた台詞である。しかし、現代奴隷制では、こううそぶいている当人が、奴隷所有者となるばかりか、自ら、奴隷制の民に囚われる危険も大きい。旧奴隷制では、どこまでいっても、人種的差異によって、奴隷主は奴隷主、奴隷は奴隷であった。しかし、現代の奴隷制では、人種の上での違いはもはや重要ではなく、両者の関係はメビウスの輪さながらよじれている。だから、いつ、立場が逆転してもおかしくはないのだ。

 しかし、私たちに危機意識が欠けているのもむりからぬところがあろう。一般的大多数の日本人が、今のような「自由」を享受できるようになってから、それほど長い時聞が経過したわけではないという簡明な事実ですら、私たちは、すっかり忘れているのだから。封建制が崩壊したと考えられている明治維新からでも、たかだか140年足らず、第二次大戦後からでは、60年足らず、である。この間、買売春はなくならず、物欲は増し、都市と農村の格差は広がった。タイの貧しい家庭の少女のように売春宿に売られるケースは時代小説の定番であるし、お茶の間の涙をしぼったテレビドラマ「おしん」の苦しい少女時代の例もある。封建制度のもとでは日本の一般庶民は、インドの農耕民のような暮らしを余儀なくされていた。読んでいると、悲しくて、思わず頭を抱えたくなるほど、「正直」なブラジルの労働者のような心性は、つい、この間まで、日本中に少なからず存在していたし、それほどまでに正直で疑うことを知らない日本人は、数は少なくなっても、まだまだ各地で生き延びている。

 歴史的にみれば、「自由」になり、洋の東西を問わず、人が自分の労働の対価を自らのものにできるようになってからの期間は、それまでの拘束と束縛と抑圧の時代に比べると、わずか一瞬でしかない。その一瞬にたどりつくまでの血みどろの闘争は、「歴史教科書」に封印され、血の匂いはきれいに消されてしまった。第二次世界大戦前・戦中、日本では他民族が奴隷労働につかされていたし、特に戦時中には性奴隷制が存在した。ところが、今もそうした闘争のさなかにある世界のある部分からは、安全に切り離されているかのような感覚しか持てないでいる。滅菌処理された「自由」のなかで生まれ育つと、「自由」が空気のようにあたりまえの状況であるかのような錯覚に陥る。だから、まさか、注意深くしていないと、そのあたりまえの「自由」が、たやすく奪われてしまうかもしれないとは、想像だにしない。

 だが、簡単な質問を日本の若者に問うてみれば、彼らから、「自由」を奪うことがいかに簡単なことかを理解できるかもしれない。その質問とはこうだ。「ある日、数人の腕力の強そうな、みるからに恐そうな男の人たちがやってきて、『あなたのお父さんとお母さんが多額の借金を残して失綜しました、両親の借金ですから、子供のあなたが支払ってください、お金がないなら、こちらが指定した場所で、指定した仕事をして、借金を返してもらいます』といわれたら、あなたはどうしますか?」多くの若者が、「しかたがないから、相手のいうとおりにする」「警察に行く」「親戚や友だちに相談する」などと答える。だが、警察ではかくまってはくれないし、親戚や友だちが法学部出身だとか弁護士ででもないかぎり、本人と同程度の知恵しか出せないかもしれない。策を持たない彼らに対しては、「屈強な男たちがやってきて」などと断る必要もないかもしれない。これが、bonded labor、即ち、債務奴隷制というれっきとした奴隷制の端緒であると気づくことができれば、最低限奴隷労働につかされるのは避けることができるのだが。

 これほど深刻な例でなくても、もっと、日常的に起こりうるような状況をあげて聞いてみてもよい。「コンビニでバイトをしていたら、店が倒産することになったのでバイト代が払えない、といわれました、さて、あなたはどうしますか?」という質問をすると、やはり、大多数の若者が、「仕方がないから、ただ働きしたと思ってあきらめる」と答える。労政事務所や労働基準監督署の存在は、知らなければそれまでのことで、知らない人にとっては存在しないも同然なのである。つまり、日本では、「自由」とは、清潔で明るいイメージをまとい、だれにも奪うことのできない生得の権利であり、いつなんどきたりとも保証されていると考えられている。そんな空気のような「自由」を謳歌するごくふつうの若者は、自らの権利・人権をどう守るかに関しては、解放された後の社会復帰更正教育が必要なインドの元奴隷と同じくらいの知識しか持ち合わせていない。しかも、「人権」ということばは、それさえかざせば理不尽なことでもまかり通すことのできる錦の御旗でもあるかのように、不幸な誤解を受けることばの代表格でもあり、人権教育が効を奏しているとは言い難い。

 極端な例をあげたと思われるかもしれない。本当に追いつめられたら、どこかでだれかが助けてくれるということは、確かに日本では、まだまだ期待できる。しかし、その一方で、なにも知らず、知らされず、助けも求められないまま、監禁されたり、ただ働きさせられたり、契約書をちらつかされて金を編し取られたり、法外な高利を要求されたり、いじめのあげく大金を脅しとられたり、最悪の場合は餓死・自殺にまで追いつめられたり、保険金目当てに殺されたり、という事件が、かなりの頻度で新聞に載ったりするのも事実である。つまり、本書で挙げられたような隷属状態におかれても、どこがどうおかしいのか、考える筋道が立てられない、あげくに相手のいいなりにされてしまう、という心理状態に追いこまれる可能性は、私たちの日常生活から消えているわけではない。

 さて、一見、現代奴隷制の犠牲者になる立場からもっとも遠いところにいるかのように見える日本人も、奴隷化のしくみに巻きこまれてしまうかもしれない可能性がないわけではないと指摘したが、今度は、現代奴隷制の加害者、即ち、奴隷所有者の立場に立ってしまう可能性について考えてみよう。

 現代奴隷制の被害者になるかもしれないという可能性以上に、加害者になるかもしれない、なっているかもしれない、という可能性について思いをめぐらす日本人は少ないのではないだろうか。しかし、こちらの可能性のほうが、被害者になる可能性よりよほど大きい。悪くすると、免罪される日本人のほうが、数少ないかもしれないくらいである。これは、経済のグローバル化によるものであると、ベイルズが、経済のしくみを簡単に説明してくれている。私たちが日常的に手にしている、安価な品物、たとえば、衣類、食料、家具、車、家電製品、建材にいたるまで、「もしかしたら、これは奴隷の手が入っており、そのために値段が安いのかもしれない」と考えだしたらキリがないくらい、品物の供給には、文字どおり、「世界」と「グローバル経済」が関わっている。そして、さらに、株式、投資信託、外国銀行との取引、など、金融の自由化により、投資の選択肢が増える、ということは、そうとは知らずに奴隷商売に投資して加担してしまう可能性が増加した、ということにほかならない。株式や投資が、もっと身近なアメリカ人は、奴隷制に加担している可能性がもっと大きい。目先のもうけに一喜一憂している姿は、奴隷所有者が、奴隷の働きから絞りとろうとする姿に重なる。

 それでも、現代奴隷制の加害者になっているという意識を持てない、という日本人のために、具体的な例をひとつあげよう。それは、ベイルズが「私たちは、自分の子供たちが、奴隷の子供たちが造ったサッカーボールを蹴って遊ぶのを幸せな気分で眺めていられるだろうか」(367頁)というくだりである。これが、単なる比喩ではないことを、私たちは事実として知ることになった。本書の訳稿がほぼ整った頃、サッカーのワールドカップが開幕した。試合のゆくえを追って、世界中が熱狂しているさなかの6月20日、朝日新聞に次のような記事が掲載された。「W杯サッカー公式球の産地」であるパキスタン東部の町・シアルコットが「児童労働撤廃モデル都市に」なったと報じる記事である。この町では、かつて、子供の労働者がサッカーボールを作っていたのであるが、世界的に注目されるサッカーのボールを子供が生産していたのではまずい、という「FIFA の自主規制をメディアも大きくとりあげ」、「企業も政府も輸出収入を失いたくないから撤廃運動に力を入れた」という。だが、もちろん、子供たちはサッカーボール生産以外の労働につくようになっただけで、児童労働そのものがなくなったわけではない。さらに、この記事では、「児童労働」とされているが、実態が「児童奴隷」である可能性は予想の範囲内である。

 ベイルズにならって簡単な計算をしてみよう。22歳の工員が3個のボールを縫い上げるのに一日8時間働き、工賃が一個につき55ルピー(約100円)であるという。これは、一日のもうけが約210ルピーのレンガ作りより、はるかに安全でワリのいい仕事には違いないが、それでも一日の給料は300円ほどである(そして、そのサッカーボールは、日本では、いったいいくらで売られているのか? まさか、500円程度で手に入るとは思えないから、差額はどこにいったのか?)。15歳未満の子供であれば、工賃はもっと安く設定されていたに違いないし、どのような労働システムになっていたのかは、この記事からはうかがいしれない。まさか、サッカーボールに奴隷労働が──それも子供奴隷が──関係しているかもしれないとは、応援に興じる大半の観衆には思いもよらないことであろう。

 このように、「まさか」というものが、奴隷の手による品物であったり、奴隷労働によって成立している産業であったりする。サッカーボールにしても、「今はもう、子供が作っているわけではないんだから、それでいい」とは言いきれない。本書でも考察されているように、ブラジルの炭焼き奴隷にされていた家族が、メディアに取り上げられた結果、一部では、労働条件の改善と児童労働を撤廃する、という動きにつながったが、場所と職種が変わっただけで、あいかわらず、子供たちは奴隷労働に従事させられている。世界からの注視がそれれば、こうした子供たちが、再びもとの仕事に返されるのは目に見えている。

 こうした児童労働、子供の奴隷化の実態については、先行研究として、1988年刊のRoger Sawyer著のChildren Enslaved(邦訳『奴隷化される子供たち』三一書房1991年)がある。この衝撃的な研究報告書の出版後、ILO やユニセフからの児童労働に関する報告が、日本の新聞などでも目にとまるようになった(もっとも、記事は概して短いのだが)。最近のILO の報告書では、「世界の子供の8人に1人が肉体的、精神的、道徳的に傷つく可能性が高い危険な労働に従事している」(朝日新聞、2002年5月8日)という。数字を示すなら、「5歳から17歳までの世界の子供のうち、計2億4,600万人がILO の基準で『廃止』すべき児童労働に従事している」という。

 また、個別の例を示すなら、ネパールからインドの売春宿へ売られる9歳から10歳の子供は、1万人に達するという。本書で取り挙げられているタイばかりでなく、フィリピンでも、「高給」になる仕事があるといって売春宿に売り飛ばす人身売買組織が暗躍している。アジア地域で売春宿に売られる子供については、『タイム』誌も2002年2月4日号で取り上げた。もちろん、アジアばかりではなく、東欧・バルカン諸国でも、人身売買ネットワークが急速に拡大しているという。こうした地域では、内紛・紛争で、社会が混乱し、無法行為に歯止めがきかなくなっているからだ。人身売買、それに続く奴隷化は、貧困に加えて社会が混乱すると、はびこりだす。だから、アメリカ軍がアルカイダを攻撃し、国土がますます荒廃したアフガニスタンからは、パキスタンやインドへと難民が押しよせ、事態は、本書の調査が行われた時期よりも悪くなっていることが推測される。

 さらに、苦境に立たされると、まっさきに犠牲になるのが、子供と女性である。タイの少女スィリのように、うつろな瞳の奥に絶望と折り合いをつけてしまう子供を、これ以上増やしたくはない。「子供を持つ親ならば、自分の子供たちには最良のものをと願うが、その最良のものが、他の人の子供を犠牲にして作られたとしたらどうだろうか」と、ベイルズが投げかける問いに、私たちはどう答えればよいのだろうか。

 奴隷制を廃止しよう、と真撃に考えるなら、息の長い闘いを展開していかねばならない。これは地道な闘いである。ベイルズが挙げる五つのポイントの他に、本書の読者が今日からでもできることを挙げてみよう。まず、グローバル化経済の本質を見極め、世界の反対側にいる労働者と私たちの生活が必ずしも無縁ではないという意識を持つこと、あたりまえに享受している自由が奪われたらどういう生活になるのか想像してみること、他人の労働の対価だけではなく他人の人権に敏感になること、買売春に加担しない精神を養うこと、などである。ラグマーク運動でも明らかなように、ある商品に奴隷労働が関わっている可能性があれば不買に徹するのは、奴隷制廃止に効果的である。しかし、「もの」を製造する類ではない種類の奴隷労働、即ち売春に関わる奴隷制をなくそうと考えるなら、「買う」人間の数を減らすしかない。それには、学校教育ばかりでなく、家庭での人間性への慈しみがどれくらい大切にされているかがかかわってもくるだろう。こう考えていくと、現代の奴隷制が滅ぶのか、繁栄するのかは、まさに、人間社会の真の豊かさのバロメーターになりうるのである。

2002年7月31日
大和田英子

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