TOP(音楽と朗読でつづる動く紙芝居で、現代奴隷制を考える)
1 2 3 4

グローバル経済と現代奴隷制
 ケビン ベイルズ (著) /凱風社
335〜370頁からごく一部の抜粋です。

 人口と経済成長の聞には、重要な関連がある。経済成長はすべての船を持ち上げる上げ潮だといわれることがある。この考え方でいくと、タイやブラジルの経済が工業化されれば、貧富を問わずだれの暮らしも豊かになるはずだった。これは、短期的には真実ではない。タイの経済学者、レー・ディロクウィタヤーラット教授は、次のように考えている。
「開発で、以前より収入が増えた人もいる‥‥しかし弱者は、開発の見返りで得るものより、はるかに支払いのほうが多い」

 私たちはみな、「入るより出ずるが多し」がどういう意味か理解している。そんな状態が長びけば、結局は借金で食いつめ、ついには奴隷状態に陥るであろう。多国籍企業が発展途上国に浸透してゆけば、この借金はとどのつまり、グローバル企業に奴隷が奉仕するという形で、始末をつけることになりかねない。

 今日、経済の紐帯は、農場や売春宿で働いている奴隷たちを、国際的な企業のはるか上層の中枢部に結びつけることを可能にする。新奴隷制成立の謎の核心は、こうした結節点がどのように結ばれるのかであり、必ず解明しなければならない部分である。奴隷たちと世界経済とのつながりは、別段、新しいものではない。19世紀イギリスで急成長した繊維産業界は、原料である綿花の大半が奴隷労働によって供給されている事実を、しぶしぶながら認めなければならなかった。イギリスの繊維産業労働者のなかには、奴隷製の綿花を加工することに抵抗した者もいたが、大半は経営者が供給した原料がなんであれ、それを加工するしか選択の余地はなかったし、その他の労働者も、そんなことは知ったことではないと考えた。工場の所有者も、道徳的にはなんの指導力も発揮しなかった。彼らはただ、「競争に勝つには最安値の綿花を市場で手当てせねばならない」と述べただけである。しかも、時の政府は、繊維業界に課税して利益を得る一方、徹底した不干渉政策を取り、「市場」こそ最良の判定者であると主張した。多くの企業、投資家、勤労者は、現在、同じようなジレンマに直面している。

 もしも自分の仕事が奴隷労働によって成り立っていると知ったら、あなたはどう考えるだろうか。奴隷制が世界経済につながる〈からくり〉を解き明かす前に、これから驚くべき事実を提示しようと思う。それを知ればきっと胸が悪くなるので、覚悟していただかなければならない。

‥‥新奴隷制は「奴隷主」と奴隷の距離をどんどん広げている。モーリタニアは旧奴隷制の極端な例だが、奴隷は「主人」の屋敷内に住み、主人の姓を名乗ることが多い。パキスタンやインドの〈現代的〉封建制度では、奴隷主は奴隷から一歩離れ、中間に支配人層を置く。タイやブラジルの発達しきった新奴隷制では、手の込んだ契約と支配連鎖が奴隷と奴隷主との聞に存在している。この連鎖はあまりに複雑なので、だれが奴隷を実際に「所有」しているのか見極めがたい。しかし、奴隷所有者の名前が分からなくなっているからといって、奴隷制が存在しなくなったわけではない。それは、殺人者が見つからないから殺人も存在しない──というわけではないのと同じである。新奴隷制は犯罪である。それも被害者が何百万人も存在するのに、犯人がほとんど特定できない犯罪である。そのため新奴隷制の撲滅はことのほか難しい。

 そもそも、こういう犯罪者たちは、「ご立派な」企業関係者であることが多い。契約や下請け契約が入り組んでいるおかげで、各地の投資家は、金もうけのからくりを必ずしも正確に知ることなく、ビジネスで高利益をあげられる。タイの売春宿を所有する投資家クラブは、その経営をプロのマネージャー(ヒモ)と経理係の手に委ねている。売春宿は、投資家クラブからの資本がなければ存在しえないし、利益は投資家に還元されるのだが、投資家は少女たちがどのようにして売春宿に連れてこられたか知るよしもない。新奴隷制は、奴隷所有を横行させて見分けにくくさせる。旧奴隷制を念頭においた法律がもはや取り締まり機能を失っているとしても驚くにあたらない。

 このように奴隷所有者が見えなくなったことは問題であるが、克服できないわけではない。あらゆる犯罪は急速に進化する。たとえば、麻薬金融やネット詐欺が極度に洗練されたのは、犯罪が進化することの証明である。しかし、法の取り締まりも追い上げと洗練化を怠っているわけではない。奴隷制取り締まりには少々時聞がかかる。大半の人が犯罪の存在を認知していないため、頼るべき世論の圧力がほとんど働かないからである。先進国では奴隷制に苦しむ人はほとんどいなくなったので、発展途上国の奴隷は沈黙させられたままである。奴隷にかかわる責任能力や犯罪性の判定基準を拡げるには法律自体の見直しが必要であろう。新法もしくは改正法は、人を奴隷にするために行われた共謀もしくは奴隷制からの利益授受にも向けられるべきで、これは、刑法が殺人の共謀も処罰の対象とし、殺人罪が実行犯にだけ限定されるわけではないのと同じである。奴隷と奴隷主との物理的距離が広がりつつあるので、法改正を遺漏なく行い、距離の拡大に反比例して責任が減じるわけではないことを明確にしなければならない。

 奴隷所有の責任が、奴隷制から利益を得ている人たちにまで拡大されると、私たちは衝撃的な倫理問題に突きあたる。奴隷制から利益を得ている人──という定義には、世間一般の全員が含まれる──あなたも私も。あなたの年金信託や投資信託が共同所有という形で株を買って、その株が奴隷労働を下請けに使う会社を所有する企業のものである可能性もある。経済の階梯をどこまで調べればばよいのだろう。奴隷と奴隷「所有者」の間には、所有責任がなくなるまで一体いくつの連環が介在しているのだろうか。あるいは、責任がなくなるなどということがそもそもあるのだろうか。「知らなかったんです」は、言い訳になるのか。もし、あなたが奴隷の製造する原料に依存する仕事をしていたら、あなたはどういう立場をとるだろうか。19世紀のイギリス繊維業者のなかには、奴隷制から利益を上げることに抗議した者もいたが、結局は失業に追い込まれ、飢えなければならなかった。メーカーや卸業者で、奴隷製品を売買していても見て見ぬふりを決めこんでいる手合いはどうなのか。何年もの間、児童奴隷の作ったカーペットが大手の百貨店で売られていた(まだ売っているところは多い)。たしかに、輸入業者は、取扱製品に奴隷労働の製品が混入している事実を承知しているだろうが、取締役会のメンバーまでが知っているだろうか。重役たちは、自社が奴隷制にかかわっていないと保証するだろうか。法的責任は個人が負うのか、それとも企業が負うのか。故意に奴隷製品を小売りチェーンに卸す人間がいたとしたら、その個人を罪に問うのが公正な態度なのか、それとも奴隷製品を販売した小売店に多額の罰金を科せばよいのか。あるいは、両者に責任を問うべきか──。

 責任にはいくつかの層序があることを認めねばならないが、私たちが市民として、そして人間として、奴隷制撲滅の遂行責任をどこまで負うかという点は決定しなければならない。ウィリアム・グレイダーは、次のように指摘する。

 グローバル化した産業革命の真髄は次の点にある。個のアイデンティティーに関して、もはや自由な選択などできなくなった。覚悟していようがいまいが、人はすでに世界と一体化している。生産者であろうと消費者であろうと、労働者であろうと商人・投資家であろうと、人はいまや、はるか彼方の他者にくくりつけられている。 全世界を単一の市場に再編しつつある商業・金融の複雑な連動が、人を遠くの他者に縛りつけるのだ。サウスカロライナやスコットランドで成功することは、シュトゥットガルトやクアラルンプールの成功と深くつながっている。カリフォルニア州民やスウェーデン人の理念や理想といった社会的価値は、タイやバングラデシュの工場で許容されている労働条件によって決まるのである。

 私たちが投資をするさい、奴隷制に間接的に加担することから免れても、消費を通じての加担からは逃れられない。奴隷の製造した商品やサービスは世界市場へ流入し、少量ではあっても確実に、私たちが購入するもののなかに混入している。

 しかし私たちの膨大な消費量は、個人個人の責任ある選択能力をはるかに越えたものである。自分たちが買うものすべてについて、それを作った人がどういう生活をしているか調べている暇はない、それに、それを問い質そうと思っても、いったいどこから手をつければいいのだろう。スーパーマーケットはそれぞれ、世界中の労使関係を調査する責任を負うべきなのだろうか、それとも、最良の食料をもっとも安価な値段で提供すべきなのか。そのうえ、好ましくない答えが返ってきた場合にどう対処すべきかも考えなければならない。

たとえば、ハイチ人は、ドミニカ共和国で奴隷として砂糖の収穫にあたっており、この砂糖がアメリカ合衆国その他の国々に輸出されている。砂糖に奴隷労働が混入していないと確信できるまで、「チョコレートは食べない、ソフトドリンクは飲まない」というようなことができるのか。製造や生産にたずさわる者を奴隷にせず、彼らにまともな賃金を支払うために必要ならば、アメ玉ひとつに500円を出す覚悟ができるだろうか。市場調査の方法を案出し、どこでどのように奴隷製品が私たちの生活に入り込んでくるかを突きとめた場合は、さらに大きな問題が立ちはだかる。私たちは奴隷制撲滅のために、いったいいくら負担する覚悟があるのか。

必要なところに投資を
 現実的になって考えてみよう。たいていの人は、奴隷制を終結させるためになにがしかの出費はやぶさかではないはずだ。しかし、出費があまり大きいと、ちょっとどうも──と考えている。多くの人がこのように考えるのなら、ひとりあたりの負担は少なくてすむなら、これは吉報である。現在、約2,700万人が奴隷にされている。絶対数は多いが、国ごとに捉えれば問題は小さくなる。さらにいうなら、奇跡を期待する必要はない。現行法と国際条約を実行し、いくつかの新法と条約を展開させ、奴隷状態にある人とその家族が自活できるよう手助けすればいいのだ。そうなるようにもっていくのは、簡単ではない。現地の労働者や研究者にとって、あくどく凶暴な奴隷所有者に対抗することは、考えただけでも怖ろしい。しかし忘れてならないのは、暴力は奴隷制の手段であって、目的ではないことである。奴隷所有者は、もうけの多い商売を守るためには暴力に訴えるかもしれないが、奴隷制が金にならないと分かれば、すっぱり手を引くであろう。奴隷制がもうからないように圧力をかけるのが奴隷制終焉への主要戦略なのである。

 試験的運動ではすでに、もうけを標的にすると効果があることが判明している。敷物と絨毯製造は児童奴隷酷使であり、インド最悪の産業のひとつになっている。もしいま、読者のみなさんがオリエンタル調の敷物を床に敷いているのなら、児童奴隷の織ったものである確率が高い。インドの活動家たちは長年、こうした債務労働者を解放し、社会復帰させようと試みてきたが、部分的な成功を収めたにすぎなかった。しかし数年前、〈ラグマーク〉キャンペーンに着手し、絨毯の製造元ばかりでなく消費者にも圧力をかけ始めた。わずかな出資金で小さな事務所をかまえた活動家たちは、手織りの絨毯を買うさいには、奴隷製品でないことを証明するラベルがついているか確認してほしいと、消費者に呼びかけた。〈ラグマーク〉をもらうには、製造者は次の三点に同意しなければならない。①子供を搾取しないこと、②民間機関の査察に協力すること、③絨毯の卸値の1パーセントを児童労働者の福利厚生基金に寄付すること──である。特段の努力を傾注した結果、高度な技能を持った監視チームが編成された。彼らはニセラベルを見破ることができ、絨毯製造の裏の裏まで知りつくし、わいろにも染まらない。今日では、ドイツ、アメリカ合衆国、カナダの各国政府が〈ラグマーク〉を認定している。通信販売の世界最大手であるオットー・フェルザンド・グループに加え、アメリカ合衆国、ドイツ、オランダの大手小売店は現在、〈ラグマーク〉付きの絨毯しか輸入しない。ヨーロッパでは「非奴隷製」の絨毯市場は30パーセントを占め、シェアを伸ばしつづけている。もちろん、ゴールは遠い。イギリスの小売商のなかには、リバティーやセルフリッジのように〈ラグマーク〉付き絨毯の仕入れを拒否しているところもある。南欧や東欧はやっといま、ラグマーク付き絨毯を仕入れ始めたところで、運動は引き続き強化されている。

 もっとも重要な点は、この運動が債務労働児童の生活に与えた影響である。インドでは〈ラグマーク〉運動によって製造業者が売り上げの1パーセントを寄付することになっており、この資金を使って小学校が2校建設されて教師も赴任し、250人の生徒が学んでいる。この運動は他の組織にも注目され、ドイツ政府とユニセフ(国連児童基金)が、絨毯製造の労働要員を供給していた地域に学校建設資金を提供している。援助を受けて学校に行けるようになった子供たちは、奴隷状態に誘い込まれなくなった。小売店のバイヤーも「非奴隷製」商品にこだわるため、もっともたちの悪い奴隷所有者がこの商売から撤退し、他の業者が代わって〈ラグマーク〉獲得に必要な手続きを踏むようになった。これは、消費者パワーの積極的効果を示す好例である。

 この運動で判明したことは、西欧の消費者と小売業者は、自分たちの欲する商品に奴隷労働が混入していると気づいた場合、ためらわずに購入を手控えるという事実である。しかし、どうしたら消費者パワーを違った種類の奴隷製品にまで拡大できるであろうか? 〈ラグマーク〉運動が一部であっても成功した理由は、敷物が目で見てそれと分かる製品であり、児童奴隷を動員した織機から織り出された瞬間の形態を保ったまま消費者の手に渡るからである。

 しかし、ブラジルの森林で焼かれた炭は精錬所や工場に供給され、西欧の消費者には届かない。パキスタンで焼かれるレンガは地元の建築業者や、ときには政府の手に渡る。また、タイの性奴隷が売る「商品」は、私たちがスーパーで手に取れるたぐいのものではない。

 にもかかわらず、グローバル経済の特徴として、こうした「事業」のすべては経済活動の一部として他の部分と直結しているのである。つながっているからには、どこかに圧力をかけると利く結節点があるはずだ。そういう急所をみつけて圧力をかけていくことが、新奴隷制と闘うときに求められる、頭の使い方である。経済の舞台裏でのつながりは、ときに入り組んで閣にまぎれこむが、それを再び白日の下にさらさなければならない。ブラジルの木炭が流れてゆく先を考えてみよう。木炭は国内の鉄鋼生産ラインに流入し、できあがった鉄鋼製品がメキシコに出荷されて自動車部品となり、それがアメリカ合衆国で新車に組み立てられ、最後にカナダで販売される。複雑な流れだが、この業界の人々はこうした供給連鎖にそって毎日働いている。知性をそなえた研究者なら、同じようにこの連鎖をたどれるはずである。

 ときにより奴隷制反対運動は、環境保護運動から学べる。環境問題に関わっている人たちも、ある国の汚染源となっている者と、別の国にある親会社との関連を洗い出さなければならない。奴隷制と同じくある種の最悪の環境犯罪は、たとえば絶滅危倶種の動物の毛皮や角の取り引きのように、世間の目から隠蔽されている。数年前、多数の環境保護団体は、こうした悪の連鎖を調査して犯人を摘発するためには、特別な〈環境探偵〉が必要であるという認識に到達した。

 こうしたきっかけから環境調査機関[EIA] という組織が生まれた。おそらく、EIA といわれでもピンとこないかもしれないが、これはロンドンに本拠地をおく地味な慈善団体で、環境犯罪者の隠された悪事を掘り起こすために、ハードな──時には隠密の、活動を展開している。調査職員はきちんとした教育を受けた専門家で、隠し撮りのプロでもあり、苦しい調査活動にも慣れていて、真相をえぐり出すために厳しく捜査する。巨大環境保護団体がすっぱ抜く大型環境スキャンダルの多くは、実際は、この環境調査機関が暴露したものである。

国連の限界
グローバル経済の複雑さと新奴隷制の国際的性格からいっても、〈環境探偵〉と同じような調査力が奴隷制の調査にも必要だ。この種の調査はすでに国連が行っているものと思いこんでいる人が多いが、じつはそうではない。旧ユーゴスラビア崩壊時のように最悪の事態に陥った場合を除けば、国連には当事国の国内を調査をする権限はない。当事国内の内部告発者からの通報があれば、国連から国際労働機関(ILO) に伝えられるが、国連は通常、なんら行動は起こさないし、制裁措置もとらない。国連は問題について議論をし、その結果を公表するだけである。ある国の代表が自国における奴隷制の存在をまったく否定した場合、国連には質問をしつづけることしかできない。世界にあまねく重大な任務を果たしてはいるものの、国連は加盟国によって支えられており、ときには、加盟国の機嫌を損なわないように配慮しなければならない。国連はまた、すべての問題を組織内で解決するという原則に基づいて運営されており、たとえ人権をないがしろにする国であっても国連に加盟して発言しているほうが、国連に加盟せず他国にいっさい反応しないよりはマシだと考えている。加盟国をひきとめておくため、国連は対立回避に腐心する。その善し悪しは別にして、国連がその運営を完全に主体的に行うことはあり得ず、そうした主体性は、必然的に市民運動の組織に委ねられることになる。

 奴隷制がどのように私たちの生活と結びつくのかという謎を解くには、優れた研究者、優れたエコノミスト、優れた経営者に頼らねばならない。研究者には、原材料の流れや、製品が奴隷の手から最終消費者にわたるまでの経路を追ってもらい、エコノミストには、奴隷制を基盤とする企業の本質と実現性のある代替案の探究をしてもらう。また、経験豊富な経営者には、生産と流通の全過程において、奴隷制に関わらずにすむ最善策を工夫してもらう。

 こうした調査・研究は、教育やマスメディアの助けがなければ、実際の役に立てることはできない。注意深く自覚的な購買行動は奴隷の社会復帰に貢献しうる。教育やマスメディアには、こうした行動を消費者にうながす役割を果たしてもらう。自分の購買行動や投資行動が、現実に奴隷解放に役立つと知れば、人はみな正義を行うものだと私は信じている。あいにく今日の私たちはほとんど、どんな奴隷の製品があるのか知らないし、年金投資、株式投資、配当金の出所がどのように奴隷制への投資に関係しているかを知らずにいる。私たちの無知に終止符を打ってくれるいろいろな組織の実態に目を転じる前に、ここで、奴隷制を成り立たせている第三の主要原因を、つぶさに調べてみよう。それは、政府の腐敗である。


‥‥ナチスに似て、大半の発展途上国でも政府が混乱をきわめている。しかし、その中核をなす動機はナチスばりの反ユダヤ主義ではなく、強欲である。グローバル化とは、西欧経済を支配している価値観を発展途上国に注入することを意味する。もうけは正義、成功は尊敬──という発想は、新規ビジネスを推し進める一方、人間性が犠牲になるのを黙殺した。以前は収益性を度外視して行われた国の活動(法の執行から飢餓救済までのすべて)が、もうけを追求する事業の展開へと変わった。政治家と実業家は新たに生まれた歳入を分かち合い、腐敗が定着した。為政者がグローバル経済に潜む膨大な富をあさりはじめると、国家秩序は破綻する。グレイダーの説明によると、このような状況に陥ると、「被害をこうむるのは常に法体系だ。社会的合意に基づく隣人同士の紐帯もきれぎれとなり、世人はみな、勝手に規則をこしらえてもかまわないと考えるようになる。これが、経済革命にくりかえし現れる特徴である腐敗につながってゆく」。どの国にもある程度の腐敗はあるが、腐敗の程度と規模を劇的に肥大化させたのは、急速な経済変化の特異な力である。既存の権力構造が転覆すると、紛争が勃発して権力の空白部を埋めようとする。貧しくとも安定していた経済は、無規律な開発と搾取に取ってかわられる。そして、これまで見たように、法治の空白を狙って強欲が人権を蹂躙する。

 どの国にも、ある程度の腐敗は現れる。明暗を分けるのは、腐敗と社会的きずなのどちらが強いかという点である。この質問を、世界の各国政府にしてみるとよい。──大統領から警察まで、権力を持つ人たちは法規を遵守しつつ仕事をしているか、それとも私腹を肥やしているか。大衆同士の関係は公共意識に基づいているか、それとも搾取を前提にしたものか。ロシア人の友人がいるが彼はアメリカの警官の対応にはびっくりしたという。
「警官に車を止められたんだけど、この国では警官が金をせびらないんだよ!」
 論点は単純だ。警察が腐敗するとすべてが腐敗するのである。法の執行が場当たり的で利権がらみのものになると、法は事実上、存在しなくなる。こうした法の執行を保証しているのは、その背後にある銃と監獄という形の潜在的な暴力である。強欲の熱に煽られると、どんな奴隷制取締法であっても霧散してしまうのである。

 世界には奴隷制に加担する警察がある。これまで見てきたように、タイやパキスタンやブラジルの警察は、逃亡奴隷を狩り出す残忍な強制執行人でもあった。しかし多くの国で、警察は奴隷制を絶滅させるために懸命に努力している。どちらの場合も、警察の「切り札」は合法的な暴力の専有である。奴隷制を調査したところでは、奴隷制が存在する決定的要因はどこでも、奴隷所有者による無制限な暴力行使であった。奴隷所有者が奴隷を捕らえておくには、暴力によって奴隷を押さえつけねばならない。奴隷所有者が自由に暴力を行便しようと法を歪め、法による保護も奴隷から奪う。警察と政府が腐敗すると、暴力の使用権まで売りに出される(もしくは、暴力そのものを「サービス」として売る)。要するに、官憲が奴隷狩りの免許証を売るのである。

 こうした暴力はさまざまな形をとり、しばしば戦標すべき形になるのは、奴隷が今日の経済価値で見ると比較的安価だからである。巨額の元手がかかる奴隷など存在しないから、殺したりけがで死なせても失うものはほとんどない。古くからの封建制度の経験があるのでもめごとがあっても丸くおさまってきたインドでも、一皮めくれば暴力が素顔を現わす。自分たちが投下した資本を傷つけないために、奴隷主が暴力の手加減をするのは、最後の旧奴隷制の残党が生きつづけるモーリタニアだけである。もちろん、奴隷からは労働力を搾取するので、労働能力を損なうような肉体への暴力は通常、最後の手段としてしか行使されない。精神を破壊する方が、肉体を破損するより金になる。強制収容所は新奴隷制のあらゆる形態を貫く共通項である。この強制収容所に収容された犠牲者が抵抗せずナチスに奉仕する原因となったのは、恐怖心や精神の破壊である。

 タイの売春宿でとなりに座って死んだように光をなくしたスィリの目を覗き、底知れぬ絶望をその声に聞きとった。人格も逃亡する意志も打ち砕かれた人間の姿を目のあたりにしたとき、私は、奴隷所有者の物欲を満たすために、奴隷として捕えられ、破壊された、戦傑すべき一個の人生をかいま見た。人間の精神を打ち砕くことはなまやさしいことではない。しかし残忍さと、時間と、苦痛に対する冷淡さがあれば、それは可能になる。世界のいたるところでこうした精神破壊が進行しつつある。奴隷所有者は残忍な行為をくりかえし、腐敗した役人や官憲は人を奴隷にしても罪に問わないと保証し、グローバル経済の越境する、資本の論理は、他人の苦痛に対して無関心な世間の人を正当化する。こうした負の円環を閉じて、変化するグローバル経済とのリンクをやりなおさなければならない。そのためにはここでもういちど、暴力はたしかに奴隷制を遂行する手段であるが、奴隷制の目的は「もうけ」にあることを思い起こす必要がある。さすがに一世紀前とは違って現代の奴隷所有者は、奴隷を「啓蒙」してやっているとか、彼らの精神を高めて宗教的に救済している──などという自己欺臓は口にしない。偏って卑劣なグローバル経済では、奴隷制には道徳面での正当性はかけらもなくなり、奴隷はもうけそのものを意味するようになった。さらにそのもうけは、奴隷制でもうけつづけるのに不可欠な暴力の確保に使われるのである。

奴隷制と闘うために
 それでは、奴隷制を支える暴力や腐敗を終わらせるには、どうしたらよいのであろうか。これが容易な事業でないことは明らかで、犯罪撲滅と同じく、果てしなき闘いなのかもしれない。しかしそれはなお可能であり、そこに踏み込む道はいくつかある。そのうちでも効果をあげているのが、「国際反奴隷制協会[ASI] 」「ヒューマン・ライツ・ウォッチ」「アムネスティ・インターナショナル」のような組織である。こうした組織は、観察、聴取、調査、監視を通して腐敗した政権による人権侵害を捜査する。さらに、人権侵害の現場に直行し、事実に則した報告書を責任を持って作成し、問題解決に献身的に取り組む。次に、調査内容を公共の場や国際諸団体に周知する。こうした組織は正確な調査で信頼を勝ち得ているからその声明には重みがあり、これらの組織によって悪が露見すると、諸外国や大衆から制裁措置を招くことになる。ミャンマーの現軍事独裁政権は自国民を奴隷化しているが、これらの組織から報告が出た後、各国メディアをはじめ、国連やヨーロッパ連合など、多方面から非難を浴びた。このように、名前を公表して恥をかかせることは重要な第一歩である。

 奴隷制のある国にはそれぞれ、地元の反奴隷制団体がある。彼らはなにものをも恐れず、奴隷所有者の鉄面皮を剥ぎとり、名前を公開し、恥をさらさせる。こうした活動をつづけている団体として、ブラジルの「田園地域委員会」(CPT)、モーリタニアの「奴隷SOS 」、パキスタンの「人権委員会」などがある。こうした組織のメンバーが大きな危険をもかえりみずに行う調査がなければ、世界の奴隷制の大半は隠蔽されたままであろう。CPTのある職員はブラジルで調査に深入りしすぎたために殺害された。パキスタンの人権活動家のシャキル・ベイサンも襲撃された。

 この章を書き始めたとたんにモーリタニアから、連絡が入って、「奴隷SOS 」代表のブパカル・ウルド・マサウドがまた逮捕され投獄されたと聞かされた。今回は、フランス人ジャーナリストと話したことが逮捕の理由である。奴隷制と闘うために私たちができるもっとも大切なことのひとつは、こうした活動家を支援することである。各地の団体が「国際反奴隷制協会」(ASI)のような国際組織と緊密な連携を保って世論の支持を広く集められるよう、私たちは保証していかなければならない。たとえばタイの農村の人権活動家が、国際組織が自分たちの活動を見守ってくれていることを知れば自信を持って活動できるだろう。そしてここにはもっと大切なことがある。奴隷所有者や腐敗した役人・官憲に、自分たちが外国から監視されていると気づかせることができれば、それは奴隷制と闘う人たちの力になると同時に、暴力の排除にもつながるであろう。


‥‥モーリタニアの「エル・ホル」や「奴隷SOS 」では、元奴隷の職員が働いている。もしこうした組織が存在しなかったら、モーリタニアの奴隷制について、私たちはほとんど無知のままに終わったであろう。こうした勇気ある組織は、奴隷解放、平等な処遇、奴隷児童の両親のもとへの返還──を迫っている。しかし 、こうした組織の事業は、モーリタニアの奴隷制にはほとんど影響力を持たない。少しでもうまくいくと、職員はすぐ逮捕されたり拘禁されたりする。こうした組織は報告書が検閲されたり、弾圧を受けたり、常に監視や尾行の対象になっている。にもかかわらず、彼らは奴隷たちの希望の星である。私がモーリタニアの首都で奴隷たちと話したとき、みんな「エル・ホル」の存在をすでに耳にしていた。奴隷たちは、政治運動や法廷闘争のことはよくわからなくても、自分たちの解放のために骨をおっている人たちが存在することは知っていた。そしてこれが、奴隷にとっては希望のすべてなのである。


‥‥私たちが目の当たりにしているのは、新しい奴隷制廃止運動である。挑戦の対象は、19世紀初頭に人類が直面した奴隷制と同様、難攻不落である。難題のひとつに、現代人が奴隷制の存在を信じたがらないということがある。先進国に住む人の大半が、「その昔」に奴隷制が廃止されてよかったと感じているので、「今さらまた廃止しなければならないなんて、ショックでがっくりだ」というわけである。しかし、今日成しとげねばならない奴隷制廃止は、19世紀奴隷制廃止論者の偉業を少しも曇らせるものではない。旧奴隷制廃止論者は、合法的な奴隷制廃止のために闘い、その闘いに立派に勝利したのである。私たちが新たに廃止せねばならないのは、非合法の奴隷制である。

 私たちが勝利するためにまずしなければならないのは、自らの無知を認めることである。奴隷所有者はもちろん、企業人から政府の役人・政治家まで、ことばや定義の煙幕の背後に奴隷制を隠そうとする。私たちは、この煙幕を透視して奴隷制の実態を見きわめなければならないし、奴隷制が単に「第三世界」の問題ではなく、全地球規模の現実であることを認識しなければならない。この現実に、私たちはすでに巻き込まれ、連座しているのである。私たちの家族に、奴隷制は私たちにも関係あるのだと自覚してもらおう。教会はもともと、奴隷制廃止運動の原点であった。かつてアメリカの教会諸団体は、メイソン=ディクソン線に沿って「地下鉄道」組織を走らせ、奴隷を自由な北部に逃がすために尽力した。今日では多くの教会が家族を守り、保護することに献身している。

 しかし、奴隷制以上に家族の命をおびやかすものがこの世にあるだろうか。母親から子供を取り上げるモーリタニアの奴隷所有者や、タイで売られる娘たちのことを考えてみていただきたい。奴隷制は疑いなく、人間の尊厳を否定し、無防備な若者を押し潰す蛇蝎のごとき仕組みである。私たちは自分の子供が、奴隷の子供が造ったサッカーボールを蹴って遊ぶのを、幸せな気分で眺めていられるものだろうか。子供を持つ親ならば、子供には最良のものを手に入れてやりたいと願うものだが、その最良のものが他の人の子供を犠牲にして製造されているとしたらどうだろう。

これは大きな闘いである。一方に、奴隷制から巨額の利益を得ている人がいる。他方に、一渥りの活動家がいるが、奴隷所有者自身というよりは無知との闘いに多大な時間を割かねばならない。あらゆるレベルで──家族から会社、教会、政党に至るまで、奴隷制を廃止すべきだと考える人は一致団結する必要がある。発展途上国で奴隷として囚われている人たちは、自由を得るためにいろいろがんばるだろうが、それも、彼ら単独では成就することはできない。私たちはそういう人たちから知識と力をもらうが、私たちも、そういう人たちに資源と力をあげられるようにしなければならない。さもないと、私たちが〈自由世界〉と呼んでいるものは奴隷を食いものにしながら、ますます太ることになる。


‥‥「まだ奴隷がいるのに、どうして自由を誇ることができようか」
 私たちは、今日、この同じ問いに答えねばならない。好むと好まざるとにかかわらず、私たちは今や地球市民である。私たちは、自らに問わねばならない。奴隷のいる世界に安んじて暮らせるだろうか──そうでないなら、私たちは自分たちに関係する事柄に対して、たとえ遠く離れていようとも責任をとる義務がある。私たちを奴隷制に結びつけている絆を理解するようにつとめ、そうしたつながりを断ちきるための行動を起こさないかぎり、私たちは操り人形にすぎず、自分たちで制御できず、制御しようともしない力にひれふすほかなくなる。行動を起こさないでいることは、ただ諦めて、私たちを奴隷制に結びつけている糸を他人に操らせることを意味する。

むろん、世界にはさまざまな搾取がある。不正や暴力もいろいろあって、当然、憂いの種となる。しかし奴隷制とは、搾取、暴力、不正のすべてを、もっとも強力に組み合わせてひとつに丸めた制度である。奴隷制こそ、私たちが許すことのできない基本的人権侵害のひとつである。万人が賛同できる、唯一の基本的な真理があるとすれば、それは、「奴隷制は廃止せねばならぬ」という提言であろう。奴隷制をなくすために使えないような経済や政治の力など、なんの価値があろうか。「奴隷制を廃絶する」という選択ができないとしたら、私たちは自分たちが真に自由であるとはいえないのである。

1 2 3 4