TOP


最底辺の10億人
 ポール・コリアー(著)/日経BP社から抜粋。


天然資源の罠

紛争だけが罠ではない。それよりもはるかに逆説的な罠は、貧困の状況下で価値ある天然資源が発見されることである。天然資源の富の発見は繁栄を促進すると考えられ、確かに繁栄の材料にはなるが、それは例外的なことであり、場合によっては資源の富は紛争の罠になりかねない。その国が政治的に安定している場合でさえも、天然資源の発見によって成長できないことがある。実際に天然資源の輸出による黒字は成長を著しく鈍らせる。通常の利ざやも含め、収入から総コストを差し引いた余剰分を、経済学者は「レント」と呼ぶが、このレントが有害に作用するのである。その損失がレントによる一回かぎりの収入増で相殺される分を上回り、成長が失われることで、大きな資源の発見があった国は以前よりひどい貧困に陥る可能性がある。

十分な天然資源がある場合には、通常の経済活動を怠ることもできる。社会全体がレント生活者として、つまり労せずして得た収入で生きることができるからである。これが莫大な石油収入のあるサウジアラビアやクウェートのような湾岸諸国の現状である。しかしこのような豊かなレント依存国家はまれであり、多くの資源国は資源からの収入で中所得国にはなれても、それ以上にはなれない。十分に発展するためには成長に向けて資源の富を活用する必要がある。しかしそれは困難で、普通のパターンは停滞であり、足踏みが続くなかでの好況と不況の循環である。これが中東やロシアの現状である。資源の富の問題で私が指摘することは、このように停滞した中所得クラスの国々にも当てはまるが、私の主な関心は第三の資源国のグループである。それが貧困の国々だ。

その経済規模が非常に小さいため、資源の富が果たす役割は重要にみえるが、だからといって中所得国にはなれない。その種の底辺の10億人の社会は資源の豊富な貧困国という範疇に入る。底辺の10億の人々の29パーセントは、資源の富が経済を支配する国に生きており、底辺の10億人の国について語る場合には、資源の富が重要な意味をもってくるのである。 それではなぜ資源の富が問題なのか。

呪い、呪い‥‥

このところ「資源の呪い」という言葉が使われるようになった。約30年前、北海で発見された天然ガスがオランダ経済に与えた影響について、経済学者たちは「オランダ病」という名前を与えた。天然資源の輸出によって、為替レートにおける自国の通貨価値が高騰すると、その国の他の輸出は国際競争力を失う。しかし、そこで失われたそのほかの経済活動は、技術的進歩に最適の手段だったかもしれないのである。私たちが援助の効果をみる際にも、この「オランダ病」という現象に遭遇する。それ故、この問題を理解しておく必要がある。

まず天然資源を輸出もせず、援助も受けていない国を考えてみよう。この国民が輸入品を購入したければ、その支払いを可能にするためには輸出を行うしかない。輸出業者は外貨をもたらし、輸入業者は彼らから外貨を買い、輸入品の購入に充てる。その国の生み出す輸出品が、社会にとって価値あるものとなるのは、まさに輸入品への支払いの必要によってなのである。さて、天然資源の輸出の話(同様に援助の話でもある)に入ろう。この国では外貨をもたらす源となっているのが資源だ。すると、輸出はその社会で価値を失うことになる。言い換えれば、現地のサービスや食料品のように国際的に取引されない品目は高騰し、資源の利益がこれらの生産に充てられる。1970年代のナイジェリアを例にとると、石油収入が増えるにつれて、ピーナツやココアなどの従来の輸出品目は収益性が悪くなり、これらの生産はたちまち衰退した。このように農業活動が衰退したことで、これらを生産していた農民は打撃を受けたが、こうした従来の輸出農業は技術革新や生産性向上を伴うようなダイナミックなセクターではなかったため、それ自体が成長のプロセスを抑制することはなかった。しかし、先のオランダ病が、急成長の可能性のある輸出活動を押しのけることで、成長のプロセスに悪影響を及ぼすことがありうる。主要な輸出活動は、今や中国やインドの輸出品目である労働集約型の製造やサービスであり、豊富な天然資源のある低所得の国はこれらの市場に割り入ることができない傾向が強い。なぜならば、輸出によってもたらされる外貨が国内で十分な価値をもたないからである。

オランダ病は経済学では依然重要な概念である。それは国際通貨基金(IMF)の最近の援助に対する批判の根拠でもある。IMF の首席エコノミストですら、援助が輸出をつぶし、成長を抑制すると考えている。‥‥

 


 


‥‥底辺の10億人の国に対する私たちのアプローチは失敗し、これらの国の多くは上向くことなく下降している。そして世界から次々に落ちこぼれていく。私たちがこのまま放置しておけば、 私たちの子孫は絶望的に分裂した世界に直面し、そのすべての結果に苦しむことになるだろう。

そうあってはならない。底辺の10億人の国も戦争を免れることはできるのである。これらの国にも様々な未来の可能性があるのだ。冷戦に比べれば、底辺の10億人の国を開発することは困難なことではないが、私たちが真剣に取り組む必要がある。右派であれ左派であれ、欧米諸国 の有権者が態度を変えなければならないのだ。

左派は開発途上国に対する西側の自責の念と理想化された途上国像を放棄する必要がある。貧困とはそれほどロマンチックなものではない。底辺の10億人諸国とは社会主義の先駆的な実験を推進する場ではない。彼らは市場経済を建設するという踏みならされた道に沿って支援されねばならない。国際的な金融機関は貧困諸国に対する陰謀を企てる一味ではなく、これらの国を支援するという重大な責務を担っているのである。左派は成長に関心をもつことを学ばなければな らない。援助は社会的に受けのいい事案ばかりを狙うべきではなく、各国が輸出市場に参入できるようになるために利用されなければならない。現在左派が大々的に喧伝するのはジェフリー・ サックスの著書『貧困の終罵』である。私もサックスの行動への情熱的な呼びかけには同意するが、彼は援助の重要性を過大評価しているように思える。援助だけが底辺の10億人の国の問題を解決するわけではなく、より広範な政策を行使する必要がある。一方、右派は、援助をたかり屋やいかさま師への施しとする概念から、脱皮しなければならない。国家が一致団結してその気 にさえなれば、成長は簡単に手に入るという考え方を棄でなければならない。これらの国が行き詰まっていることや、中国やインドと競合することが困難になっている事実を受け入れなければならない。事実グローバル市場における民間企業の活動が、公的介入が必要な最貧困で問題を引き起こす可能性を認めなければならない。そして米国政府ですら自ら問題を解決するには十分に大きくはないため、国際的に解決を図るためには、各国の協力が必要である。現在右派が大々的に喧伝するのは、経済学者ウィリアム・イースタリーの著書『白人の負担』である。援助ロビー団体の錯覚を嘲笑する点ではイースタリーは正しいだろうが、サックスが援助の成果を過大評価するのに対して、イースタリーはそのマイナス面を誇張し過ぎ、ほかの政策の展望を軽視する。

豊かな国の一般の人々は、どのようにこれらの問題に関わるのだろうか。有権者は自らにふさわしい政治家を選ぶものだ。豊かな民主主義国に昔からよくある例は、「政治的景気循環」と呼 ばれるものである。政府は長年、選挙の前に金を使って人為的に経済を活性化させ、いったん選挙で再選されるとその結果たる経済的混乱に直面してきた。しかしついに有権者も起きていることに気づき、この策略は集票に通用しなくなった。その結果今では政治家も、ほとんどこの策略を試みなくなっている。底辺の10億人の国に必要な政策全般についても、こうした認識が深まる必要がある。このような思考の変化は一般の人々、本書を読み終えようとしている読者に関わってくる。もちろん本書ですべての問題を詳述したわけではない。しかし三つの中心的な提案については納得してもらえたものと思いたい。不幸にもこれらの提案はこれまでなされなかった ものであり、そこで、考え方をどのように変えるべきかを要約しておこう。

まず第一の命題は、現在私たちが直面している開発の問題が、過去40年のものとは異なっていることである。開発問題は、開発途上国およびミレニアム開発目標へと歩み続けている50億 人のそれではない。それは閉塞状態にある国々のおよそ10億人の人々に関係する問題である。 これこそ私たちが取り組まなければならないテーマだが、現在のような対策を続けているなら、 たとえ指標上の世界の貧困の数値は改善されるにせよ、問題の根治はできないだろう。

第二の命題は、底辺の10億人諸国では変化を成し遂げようとする勇敢な人々と、これを阻止しようとする強力なグループの間で、激しい抗争が繰り広げられていることである。底辺の10億人諸国の政治は、豊かな民主主義国の穏やかで平静なプロセスとは異なる。むしろ両極端のモラルの危険な抗争である。底辺の10億人の国の未来のための戦いは、悪意ある豊かな世界と高潔な貧しい世界との戦いではないのである。それは底辺の10億人の国の社会内部の戦いであり、 これまで私たちはおおかたその傍観者にすぎなかった。

第三番目は、私たちが傍観者であってはならないということである。私たちが変化を支援することが、決定的な意味をもつだろう。私たちは援助に対してより理性的なアプローチをするだけでなく、これまでは開発のための武器とはされてこなかった手段を駆使しなければならない。それは貿易政策であり安全保障政策であり、私たちの法律の改正と新たな国際憲章の制定である。 要するに私たちはターゲットを絞り込み、手段を拡大する必要がある。これこそG8の議題でなければならない。