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新版 グローバリゼーション
 マンフレッド・B・スティーガー(著)/岩波書店から抜粋。


‥‥現代史をつぶさに見れば、大規模な暴力的衝突がそれまでのグローバリゼーションの諸傾向の進展を押しとどめ、さらには逆転させる力をもっていたことがわかる。第2章で記したように、1860年から1914年までの時期は、ひとつ前のグローバリゼーション局面をなしており、輸送・通信ネットワークの拡大、国際貿易の急速な成長や資本の大規模なフローによって特徴づけられていた。当時において世界の「列強」中でもっとも優勢だったイギリスは、今日のアメリカと同様に、その政治システムや文化的価値を世界に広めようとした。だが、この前段階のグローバリゼーションは、ヨーロッパ製品と引き換えに、植民地化された南世界から資源を移転するものであり、その性格は明らかに帝国主義的であった。自由主義は、イギリスのもっとも重要なイデオロギーだったが、それを通じて、ナショナルな──グローバルではなく──想像力は〔自由主義的〕政治プログラムとして具体化された。大英帝国が主導して「諸国民の間の(inter-national)」市場を創出しようという継続的な努力は、結局のところ深刻な反動をよび、ついには4年の世界大戦を引き起こすことになった。

この主題に関する不朽の研究〔である『大転換』〕において、政治経済学者の故カール・ポランニーは、二○世紀前半の世界を捉えた社会的危機の諸根源を、市場を自由化しグローバル化させようとした誤った営為に求めた。商業的利益が冷酷な市場論理を通じて社会を圧倒的に支配するようになり、人々の経済活動は〔それまでの〕社会関係から実質的に断ち切られたのである。自由市場の競争ルールは、人々の相互の義務からなる複合的な社会関係を破壊し、市民参画、互酬性、再分配といった、社会に深く根ざした規範と価値を土台から掘り崩した。大部分の人々は、自らが適切な社会保障システムや共同体からの支援を得ていないことに気づき、市場のグローバリゼーションから自らを守るための過激な手段に訴えたのである。

ポランニーは、自由奔放な資本主義に対抗したこれらのヨーロッパでの運動が、結果的に一国レベルで社会政策上の保護立法を強引に押し通そうとする政党の誕生をもたらしたのだと記している。第一次世界大戦終結後の長期の深刻な経済的混乱の後、一国的な保護主義の衝動は、イタリアのファシズムおよびドイツのナチズムというもっとも極端なかたちで発現するにいたった。結局のところ、すべての国民国家を自由市場の要求に従わせるという自由主義の理想は、市場を全体主義国家のまったくの付属物にしてしまうという、同じく極端な対抗運動を生み出したのである。

ポランニーの分析を現在の状況に適用可能であることは一見して明らかである。一九世紀の先行例のように、市場派グローバリズムの現代版もまた、世界的な規模で経済の規制緩和と消費主義文化を解き放つという巨大な実験を代表している。一九世紀のイギリスのときと同様、倣慢な「アメリカ帝国」の主導する経済統合のグローバルな論理によって抑圧され、搾取されていると感じている世界の各地から、アメリカに対して尊敬と侮蔑の両方が寄せられている。

厳密に言えば、もちろん、アメリカは「帝国」を形成してはいない。しかし、アメリカの帝国主義が持続的でおおむね非公式な過程として永続してきたことを主張しようと思えば、その妥当な根拠を見いだすことはできよう。それは、一七世紀の北米大陸での拡張主義的な入植とともに始まり、時代によっては、1890年代のハワイ諸島、サモアの一部、フィリピンとプエルトリコの併合など、さらに威圧的なかたちをとることもあった。しかしながら、一世紀以上を経てアメリカはもはや、その主権的な権威のもとで、征服した人民に対する直接支配ないし公式の支配──それは「帝国」の顕著な特徴である──を行ってはいない。とはいえ、冷戦以来、この国は莫大な富、比類なき軍事力とグローバルな文化的影響力をもつ新種の帝国として登場した。おそらくアメリカは、世界全体を自らの地政学的な勢力圏であると考える「超越的な大国(ハイパーパワー)」となったのである。

9・11以後に、アメリカは、望むならばたとえ一極主義的なやり方によってさえ、自国の理想とするグローバルな秩序を他に強要できる、歴史上に比類ない立場にあることに気づいた。アメリカの新保守主義〔ネオコン〕派の外交政策の専門家たちの、次のような議論にそうした感覚が表明され始めていた。すなわち、帝国的な地位を引き受けようという意志をもつ強いアメリカだけが、大量破壊兵器の入手を熱望する聖戦派グローバリストの行動によって混乱した世界を安定させる任務につけるのだ、という議論である。そういった「タカ派」たちにとって、グローバルな安全保障を欠いた新しい環境は、明らかに「アメリカ帝国の出番」にほかならなかった。したがって、「帝国的グローバリズム」こそが、軍事的な手段によって世界をアメリカがイメージするように作り変えようという、新保守主義の傾向を的確に性格づけるものといえそうである。その軍事的な傾向にもかかわらず、ブッシュ政権は、これまでに確立されてきた市場派グローバリズムの枠内で、自らの帝国的グローバリズムを構築したのである。ブッシュ政権の『アメリカの新しい国防戦略』(2002年、2006年改訂)には、有名な予防〔先制攻撃〕条項──アメリカ政府は仮想「敵」がアメリカを攻撃する前に攻撃する権利を保持する──が盛り込まれており、そこであらためて断言されているのは、世界大での自由市場と自由貿易の確立がアメリカの国家安全保障において「カギとなる優先事項」だということである。

このように、アメリカ帝国とグローバリゼー ションは必ずしも対立しない。帝国的グローバリズムは、市場派グローバリズムの主要な主張をすべて保持しており、重要な修正点は次の二点だけである。すなわち、「誰もグローバリゼーションに責任を負っていない」という第三の主張は、アメリカには、自己調整的だとされる市場の秩序をグローバルに強化する用意があるとブッシュ政権の側で公然と宣言したことにより、変更が加えられている。その結果、市場派グローバリズムには、(市場の自由化とグローバルな統合として理解される)グローバリゼーションはテロとのグローバルな戦争を必要とする、という主張が新たに追加された。

しかし、前章ですでに見たように、帝国的グローバリズムの宣告に対する挑戦がなかったわけではない。ずばりこう考えられる。つまり、近年のアルカイダによる攻撃は、世界中で増え続けるテロ組織とその支持者たちに対する、アメリカ政府とその同盟諸国によるグローバルな戦争をさらに拡大する、その幕開けを告げる号砲にすぎなかったのだ、と。このようなゾッとする反動的なシナリオが深刻化していけば、グローバリゼーションに歯止めがかかるということも考えられる。

他方で、これらの聖戦派グローバリズムの暴力的な諸勢力を封じ込めようとして現在続けられている努力が、実際に国際協力を拡大し、新しいグローバルな同盟の形成を促す可能性もある。テロリズムの社会的原因を根絶するために、北世界諸国は、支配的な新自由主義的グローバリゼーションを推進するのではなく、それを現在のグローバルな富と福利の南北格差の削減を目指す、実のある改革的な課題(アジェンダ)に置き換えようとするかもしれない。不運なことに、その略奪型、グローバリゼーションに「人間の顔」を与えるという頼もしい約束は繰り返されてきたものの、市場派グローバリストの多くは、なおも企業中心的な課題(アジェンダ)の範囲内に留まり続けている。彼らの提案する「改革案」は、仮に実行されたとしても、本来的におおむね象徴的なものに留まっている。

たとえば、正義派グローバリストによるデモの結果、富裕諸国の代表たちはWTO事務局長とともに、世界中の聴衆に対して、WTOのルールと構造を、透明性と説明責任をさらに高める方向で改善すると請けあった。それでも、数年たった現在まで、これらの言質を引き受けた具体的措置には踏み出していない。確かに、WTOは問題のあるいくつかの手続きの見直しを求める途上諸国からの執劫な要請に応じて、特別総会を開催してきた。それでも、WTOを圧倒的に支配する北世界の強力な諸政府のスポークスマンたちは、現在の取り決めを法的な義務と考えていることを明らかにしてきた。彼らの見方では、手続き上の問題はもっぱら、多国間交渉の新しい包括的ラウンドの脈絡の中でのみ、取り組みが可能であるという。しかし、そのラウンドは、数多くの途上諸国や正義派グローパリストのNGOが敵対視する、まさにそのルールに従って指揮されるのである。

市場派グローバリストのパラダイムを、温和な改革主義という新しいレトリックで強固に防衛しようというこの新戦略は、比較的短期には機能するかもしれない。しかし、長期的には、グローバルな規模で不平等が拡大し続け、社会的な不安定が続くことで、反動的な社会的諸勢力──1930、40年代に何百万人もの人々を苦しめる原因となった勢力でさえも小さく見えるほどの諸勢力──を解き放つ潜在力を育むことになる。近年の展開に示されているように、グローバリゼーションそのものが生きのびるかどうかは、それが二一世紀に人類が直面している地球温暖化、経済的不平等の拡大、政治的・社会的暴力の拡大という、三つのグローバルな主要課題に対処できるかどうかにかかっている。市場派グローバリズムと、それにイデオロギー的に対抗する者たちとの間で暴力的な衝突がさらに拡大する事態を防ぐには、世界のリーダーたちが正真正銘の連帯を世界的に築き広げる包括的なグローバル・ニューディールを策定し、実施しなければならない。

間違いなく、これからの数年先、数十年先にはさらなる試練が待ち受けているであろう。人類はもう一つの重大な局面を迎えている。私たちがグローバルな諸問題を見過ごし、世界の不均等な統合に対する唯一現実的な方策が暴力と不寛容しか残されていない、というような事態を招くことを避けるには、グローバリゼーションの将来の針路を改良主義的な課題(アジェンダ)に結びつけなければならない。私が本書のはしがきで強調したように、グローバリゼーションの帰結として社会の相互依存がより大きく顕在化することは決して悪いことではない。しかしながら、これらの変容促進的(トランスフォーマティヴ)な社会的過程において、私たちは自らの集合的な営為を導く道義的なコンパスと倫理的な指針をもたなくてはならない。それはすなわち、人類の進化の活力源であった文化の多様性を破壊することなく普遍的人権を保護するような、真に民主主義的で平等主義的なグローバル秩序を構築することである。