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グローバル経済と現代奴隷制
 ケビン ベイルズ (著) /凱風社 
46〜52頁から

荒くれ西部症候群
 文明社会の目安は、政府が武装力を独占していることである。これは、民主主義が進化すると暴力がなくなるのではなく、暴力が発生すると国家警察力が行使され、暴行者の監禁が図られることを意味する。私たちの頭の中で無法状態とは、社会秩序の混乱や残虐行為の横行で、いつも暴力に怯えている状態のことである。秩序と安全とは、大方の人が遵守する法律が存在することであり、合法的警察力がこうした法律の後ろ盾になっている。警察がふつうは正直で、犯罪者は櫨の中にぶち込まれ、意見の違いがあっても気分を害する程度ですみ、死には至らない、そういう社会に住み慣れた人にとって、発展途上国の大半に見られる無法状態を想像するのは難しい。

 昔の開拓時代の西部は無法地帯であり、ほこりまみれのその時代は、ガンマンたちが町を恐怖に陥れた時代でもあった。そんなときでも、郡保安官とか連邦保安官が待ってましたとばかりに無法者を一掃して、夜明けを迎える。しかし今日、後進諸地域での現実は、それよりはるかにはるかに、すさまじい。

 ヨーロッパや北アメリカでは、警察は組織犯罪と闘う。タイでは、警察こそ、組織犯罪そのものである。同じことが、アフリカやアジアの多くの場所に当てはまる。国家による暴力の独占という、市民を守るための独占暴力が市民に牙をむく。このような社会秩序の乱れは、急激な社会的・政治的変化にともなってしばしば発生する。病気の流行、天災、経済不況、戦争など、非常時の共同体は崩壊しやすく、「力は正義」という恐怖状態に転落する。こうした状況が見られるのは、ブラジルの辺境地帯や、タイの都市と農村との境界地帯のように、開発が急激に進んでいる地域である。こうしたところでは、変わりゆく経済が農民を土地から追い立て、困窮状態に追い込む。他方、都市では非熟練労働者の需要が高まる。貧窮にみまわれると、家族・共同体の伝統的なシステムが、もろくも崩壊しそうな人たちを支える。こうした国々ではまだ、旧来の互助システムが効果的な国家福祉制度によって置き換えられていない。保護も選択肢もないために、貧しい者は力を失い、暴力を手にしたものは、国家の介入も受けずに途方もなく強大になる。

 奴隷制はこうした環境のもとで花開く。奴隷を支配するために奴隷保有者は、できるだけ広範かつ頻繁に、暴力にうったえねばならない。暴力を掌中に収めていなければ、彼らは無能である。旧奴隷制の下では、主人が奴隷に行使しうる暴力には規定があった。それも無視されることは多かったが、アメリカ南部の奴隷法では、奴隷に読み書き計算を教えることは禁じられていた。また、厳密な懲罰規定に従うよう勧告し、奴隷の殺害や手足の切断は禁じられ、衣食に関する最低限度も定められていた。しかし、奴隷法は奴隷主に対し、合法的な権利として、殺人に至らない程度の暴力の独占も許していた。奴隷主が必要とすれば、国は奴隷を殺害(処刑)することができたから、国の法も権力も奴隷主を支持したことになる。今日、独占的暴力は分散化される傾向にある。独占的暴力は国法にあるのではなく、地方警察や兵士の手と武器に委ねられているからだ。実際、新奴隷制が根を下ろして繁栄するとしたら、独占的暴力が中央政府から地方の悪漢どもの手に移ったことに本質的原因があるであろう。通常、新奴隷制は、現代的な生活スタイルと伝統的な生活スタイルとの正面衝突によってもたらされる。

 世界レベルの産業経済と旧来の農業文化とが出会って混ざり合う地域は、発展途上国のいたるところで見出すことができる。こうしたふたつの文化が接触する地域では、天然資源の支配権をめぐって血で血を洗う抗争がしばしば繰り広げられている。アマゾンでは〈搾取〉戦線の前進にともない、その地域の鉱脈や木材をめぐって小規模だが悲惨な戦いが続いている。アマゾンの原住民であるインディオには戦う術がほとんどなく、繰り返し退却を強いられ、皆殺しにあい、時には奴隷にされる。森林を切り裂いた新しい露天掘り鉱は、政府の力が直接及ぶ地域から数百キロも隔たっている。ここでは、銃火器を持つものがショーを取り仕切り、武器を持たないものは命令に従うか消え去るしかない。数少ない地域警察には選択肢がひとつしかない。ならず者といっしょになって利益にありつくか、法を守ろうとして死ねか、である。

 その結果は、アントニア・ピントがこの章の冒頭で説明したような無法状態と恐怖となる。近い将来に政府の介入が望めない鉱山村でどちらが選ばれるかは明らかで、残虐な社会秩序が幅を利かせている。ブラジルの状況は劇的だが、同じ傾向はガーナの農村地帯からバンコクのスラム街まで各地で見られるし、パキスタンの高原からフィリピンの村々に出現している。つまりこの〈荒くれ西部症候群〉は、奴隷制撲滅のために何をなすべきかに深く関係している。

知識から自由へ
 新奴隷制の特徴を見てみると、そこには明白な主題がある。奴隷は安価で使い捨てができる。合法的所有権がなくても奴隷の支配は続く。奴隷制は契約書の陰に隠される。そして、奴隷制は、非常事態下にある共同体で春を謡歌する。こうした社会状況は、奴隷制を促進するある種の経済と共存しなければならない。ヨーロッパやアメリカでも秩序が機能しなくなることはあるが、奴隷制は根付かない。それは、うってつけの奴隷候補になってしまうほど暮らしに困る人がほとんどいないからである。西欧諸国の大半では、人を奴隷にするだけの力の差はなく、奴隷制という観念はおぞましいものとなっている。人口の大半がそこそこの生活水準を保ち、ある程度、財布が安全であれば(自ら守るものであれ、政府により守られているものであれ)、奴隷制の栄える余地はない。

 奴隷制は極貧生活の中でもっとも大きく発展する。だから私たちは、奴隷制の社会的前提条件もさることながら、その経済学的前提条件を明らかにすることができる。奴隷制になくてはならぬものは人間──おそらくは土地の者ではない人間、それに奴隷労働の需要である。それは明々白々であろう。奴隷保有者は奴隷を買い、捕らえ、誘い込むだけの資産があり、奴隷にした後で支配できる力がなくてはならない。奴隷一人の維持費は、自由労働者を雇う費用より安いか同じでなければならない。そして奴隷の生産物は、奴隷保有に利益をもたらすに十分な値段で買い手がつかなければならない。

 さらに潜在奴隷は、奴隷になる以外に選択肢が視野にない人物でなければならない。貧しく、家がなく、難民だったり棄民だったりすればみな、奴隷へ通じるドアを開けたくなる、絶望的境地に到達する。絶望は、魅力的な罠を仕掛ける奴隷業者の仕事をやりやすくする。さらに、誘拐されたときに奴隷化の暴力に対して自己防衛するだけの実力があってはならない。

 新奴隷制を成り立たせている諸条件や主題を詳しく述べることにこだわりすぎている──そう見えるかもしれない。しかし新奴隷制は、ワクチンのない新種の病気のようなものなのだ。私たちが新奴隷をちゃんと理解するまで、何が奴隷制を動かしているか心底思い至るまで、奴隷制を根絶できるチャンスはおとずれない。しかも、この病気は蔓延しつつある。新奴隷制が広まるにつれ、奴隷化される人数も増えていく。世界経済を通じて生活に直結する、奴隷制という伝染病が私たちに迫りつつあるのだ。

 こうした諸条件は他方、なぜ、現行の対策では、新奴隷制が廃止できないのかという理由も分からせてくれる。奴隷の入手や支配は所有権がなくても実現できるので、奴隷の所有権を強制的に禁止する法的救済策には効果がない。所有権が奴隷制に必要ではなくなると、奴隷制は通常の労働契約書の範囲内での隠蔽や合法化が可能となる。

 奴隷制を取り締まる法律が機能するためには、起訴に足る明白な違反がなければならない。たしかに、基本的人権を奪ったり、身柄を拘束したり、無賃金で働かせたり、危険な条件下での労働を強制する行為を取り締まる法律はほかにもある。奴隷制は疑いなく、究極の基本的人権の蹂躙であり、一歩まちがえば殺人になりかねないが、これを白日の下にさらすには、次のふたつの要件が存在しなければならない。すなわち、政治的意志と被害者を守る能力である。その政府に、自国内での基本的人権を守る熱意がなければ、基本的人権は消滅しかねない。人権を蹂躙されている人が保護を求めることができなければ、銃と権力を手中にする人を告発したり、人権を求めて闘うこともできない。こうした事態は、今日、奴隷制が存在している多くの国で見られる。

 このように保護が得られないという事態が、新奴隷制を阻止しようとするさいに大問題となる。国連は自国民を守り、法を遵守するよう、各国政府に要請している。しかし、各国政府が国連を無視する立場に立つと、国連のなしうることはほとんどなくなる。

1986年、国連はスーダンで誘拐され奴隷にされた家族についての報告書を受け取った。1996年にこの問題への適切な対処を要請されてから10年の後、スーダン政府はやっと公式捜査を実施すると宣言した。捜査結果の公表期限は1996年8月だったが、何の報告もなく過ぎ去った。その間、スーダン南部サバンナに居住するディンカの女性や子供が、政府のあとおしする民兵によって誘拐され奴隷にされていることが、新たな報告で分かった。しかし、世界各地の政府が自国の問題に知らぬ顔を決め込み、奴隷保有者と結託して自国民を奴隷化し、さらにそのおかげで奴隷制が存続しているのだとすれば、外交的な働きかけなど何のインパクトももたらさないであろう。

 そこで、以下の二つの疑問を提示する必要が出てくる。どうすれば、奴隷のいる国の政府に自国民を守らせることが(時にはその手助けが)できるのか? そして、その国の政府が腰を上げない場合、新奴隷制の撲滅に役立つどんなことを、旧奴隷制との関わりで知りうるのか?

 どちらの疑問にも経済面からの答えがある。南アフリカでのアパルトへイトに終止符を打った体験から学ぶことがあるすれば、それは金銭問題で政府を叩きのめせば、政府の態度を変えさせることができるということだった。奴隷制のもうけがなくなれば、人を奴隷にする動機も失われる。しかし私たちは、新奴隷制の経済学についてどれほどのことを知っているだろうか? 残念ながら、それは皆無に近い。

 そこで私は、奴隷調査の旅を始めた。タイ、モーリタニア、ブラジル、パキスタン、インド(これらの国はすべて奴隷制と債務労働に関する国連規約を批准している)において、私は各地の奴隷制を調査した。どの例においても、奴隷制がどのように商売として成り立つのか、まわりの共同体がいかに慣習から奴隷制擁護にまわっているか、あるいは恐れから見ぬふりをしているか、私はつぶさに調査した。

 本書で読者のみなさんが私の出会った奴隷の生活を知り、各地の奴隷保有者や政府の役人が奴隷制を正当化する話を読みおえたとき、そのときこそみなさんは、新奴隷制の正体を知り、われわれが奴隷制を廃止するためにいかなる仕事をすればよいかお分かりいただけると、私は思っている。

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