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世界に格差をバラ撒いたグローバリズムを正す
 ジョセフ・E. スティグリッツ (著)/徳間書店 から一部抜粋。
ジョセフ・E. スティグリッツ (クリントン政権米国大統領経済諮問委員会委員長、元世界銀行上級副総裁兼主席経済学者、ノーベル経済学賞受賞者)

 グローバル化にかんしては多くの専門委員会が設けられ、多くの報告書が発表されてきた。わたしも国際労働機関(政府と産業界と労働界を結集させるべく1919年にジュネーヴで創設された)が2001年に設置した"グローバル化の社会的側面にかんする世界委員会"に参加した。タンザニア大統領のベンジャミン・W ・ムカパと、フィンランド大統領のタルヤ・カーリナ・ハロネンの二委員長体制をしく同委員会は、2004年、グローバル化にたいしてきわめて懐疑的な内容の報告書を発表した。世界がグローバル化をどう感じていたか、理解を深めてもらうために一部を引用する。

〈グローバル化は現段階のプロセスにおいて、国と国とのあいだでも、一国の内部でも、バランスに欠ける結果を生み出している。たしかに富は創出されたものの、大多数の国々と人々がその恩恵にあずかつておらず、また、グローバル化のプロセス形成にかんしても発言権をもっていない。大部分の女性と男性の視点からみたグローバル化は、自分の子どもたちにまっとうな仕事とよりよき未来を用意してやりたいという、しごくもっともな親の望みを実現不可能にするものだ。これらの人々の大半は、非公式な経済の中で公式な権利をもたずに暮らしており、彼らの属する貧困国は、グローバル経済の枠外でどうにか命脈を保っている。経済的な繁栄を謳歌する国々でも、国内の労働者や共同体の一部は、グローバル化の負の影響を受けている。通信技術の革命によって、格差の存在が世界じゅうに知れわたっていく現状では‥‥これらの世界的不均衡は、倫理の面で受容不可能であり、政治の面で持続不可能である。〉

この委員会は世界73カ国を調査して驚くべき結果を得た。1990〜2002年のあいだに南アジア、アメリカ、欧州連合(EU)を除く全地域で失業率が上昇していたのだ。報告書が発表された当時、世界の失業者数は過去最高の1億8,590万人を記録した。委員会の調査によれば、世界の総人口のうち、不平等が拡大傾向にある国々に住む人の割合は59パーセント。不平等が縮小傾向の国々に住む人はわずか5パーセントにとどまった。先進諸国の多くでも、金持ちがより金持ちになる一方、貧困層は現状維持さえむずかしい、という状況だった。

 つまり、グローバル化は一部の国に利益をもたらした──生産された製品とサービスの総量であるGDP値を押し上げた──可能性があるものの、これらの国にかんしても、国民の大多数に利益をもたらすことはなかったわけだ。グローバル化によって貧困者だらけの富裕国が生み出されるかもしれない、という懸念が生じたのも当然だろう。

 一般的に言うと、経済のグローバル化に反対する者たちは、世界市場全体の成功には反対していない。先進国が成しとげた発明と革新を途上国にも利用させる、という知識のグローバル化にも、もちろん反対していない。彼らが懸念するのは次の五つの点だ。

  1. グローバル化という名のゲームのルールが不公平であり、先進工業諸国が有利になるよう設定されている点。実際、最近行なわれたルール変更の一部があまりにも不公平なため、最貧国の一部では国民の暮らしむきがさらに悪化した。

  2. グローバル化によって物質的利益を重んじる価値観が突出し、環境や生命を大切にするような価値観がないがしろにされている点。

  3. グローバル化推進のプロセスで、発展途上国が主権の大部分を奪われ、国民の福祉に影響する分野での自己決定能力をなくしてしまった点。これは民主主義の弱体化にもつながった。

  4. 誰もが経済的利益を享受できるというグローバル化擁護派の主張に反し、先進国と途上国の双方に数多くの敗者がいる証拠が山ほど存在する点。

  5. 途上国に押しつけられた経済システムが、国情を無視したものであり、多くの場合、大きな損害をもたらしている点。5つのうち、これが最も重要かもしれない。グローバル化は経済政策のアメリカ化や文化のアメリカ化を意味してはならないが、しばしば、あってはならないことが現実となり、途上国に遺恨を抱かせてきたのだ。

最後の点は、先進国にも途上国にも重大な影響をおよぽす。市場経済にはさまざまな形態が存在しており、アメリカ・モデルは、北欧モデルとも、日本モデルとも、ヨーロッパの社会民主的モデルともちがう。グローバル化が"英米自由主義的モデル"を広めるために利用されてきたのではないかという疑念の声は、先進諸国の内部からもあがっている。



‥‥所得と生活水準の向上はもちろん大切だが、貧困者に足りないのは金銭だけではない。わたしがチーフ・エコノミストを務めていた当時、世界銀行は『貧しい人々の声』と題する報告書を公表した。エコノミストと調査員で構成された研究チームは、世界60カ国を対象に、貧困層の男女およそ6万人から聞き取りを行なった。自分たちがおかれた状況をどう感じているか、と。案の定、貧困層の人々は収入の乏しさだけでなく、不安と無力感にも悩まされていた。特に仕事をもっていない貧困者のあいだでは、社会からのけ者にされているという疎外感も強かった。

 いっぽう仕事をもつ貧困者にとっての不安は、失業と賃金低下のリスク──90年代末のラテンアメリカ、ロシア、東アジアの経済危機では賃金が大暴落した──だった。グローバル化は途上国をより高いリスクにさらした。しかし、途上国にはこのリスクへの備えがみごとなまでに欠落していたのである。

 先進国では、社会の格差を埋めることを目的に、政府が老齢年金、障害者給付、健康保険、生活保護、失業保険などの制度を提供してくれるが、途上国は往々にして政府も貧しいため、社会保険プログラムを実行する余裕などない。なけなしの財政資金は多くの場合、基礎教育や医療やインフラ整備に注ぎこまれる。独力で対処しろと突き放された貧困者は、海外との競争によって経済や雇用が悪化すると、当然その影響をもろに受けてしまうわけだ。富裕層のように貯蓄をしておけば、悪影響を緩和することも可能だろう。しかし、貧困層に貯蓄があるはずもない。

 貧困層が抱える懸念の中でも大きいのは、不安と無力感、だ。貧困層の人々は発言の機会がないに等しい。彼らが声をあげても、誰も聞く耳をもたない。たとえ誰かが聞いてくれたとしても、打つ手は何もないと言われるのが落ちであり、たとえ何か打つ手があると言われたとしても、今までに実現された試しはない。世界銀行の報告書では、ジャマイカの若い女性の発言が、この無力感を的確に表わしている。「貧困というのは、監獄の中で日々を暮らし、手枷足枷をされたまま、解き放たれるのを待つようなものです」

 

‥‥欧米は、途上国製の輸入品から身を守るため、不公平な貿易協定の押しつけに奔走しながら、自由貿易賛美の弁論術をみがきあげた。先進諸国は、交渉の議題を設定する時点で、ほぼ勝ちを決めていると言っていい。つまり、市場開放が論議される対象となるのは、先進国が比較優位性をもつ商品とサービスだけなのだ。

 欧米の交渉担当者たちは当然のように、好きな議題を設定して好きな結果を決定できると考えている。アメリカとEU がサービス市場の開放を推し進めるとき、彼らの頭の中に、次のような論理的思考は存在しない。全般的にみると、サービスは労働集約性が高い。また、全般的にみると、途上諸国は労働力が豊富である。したがって、全般的にみると、公正なサービス部門の自由化は途上諸国に多大なる恩恵をもたらす‥‥。彼らは代わりに、次のように考える。現時点でわれわれが比較優位性をもつ熟練労働サービスを自由化してしまおう。労働集約性の高いサービスの自由化はなんとしてでも阻まなくてはならない‥‥。議論をする前から、彼らの心の中には、バランスを欠いた合意が成立しているわけだ。

諸悪の根元は利権集団、それも、貿易自由化に抵抗する途上国の利権集団ではなく、先進国の利権集団だ。貿易自由化擁護派は前者を非難するが、後者は、自分たちが有利になるよう貿易交渉の議題を設定させるだけでなく、そのせいで自国の平均的市民の暮らしが悪くなろうと意にも介さない。交渉担当者たちも、身近な"クライアント"──ときには直接、ときには議会や政府を通じて、たえず大きな圧力をかけてくる企業群──を気づかうあまりに、しばしば大局を見失ってしまうことがある。業界の利益をアメリカの国益と混同するならまだしも、世界貿易システム全体の利益とも混同するのだからたちが悪い。しかも、これはアメリカだけでなく、先進国共通の現象なのだ。どこの国の交渉担当者も、輸出品を製造する業界団体からは、国外市場開放の方向で圧力を受け、輸入品と競合する業界団体からは、国内市場保護の方向で圧力を受ける。いきおい彼らが腐心するのは、論理の一貫性を保つことでも、原理にのっとった合意を形成することでもなく、相剋する利益のあいだでどうバランスをとるかということになる。

 シアトルのデモ参加者たちは、不満という重大なメッセージを、各国の閣僚に送りつけた。しかし、先進国はさらなる自由化の推進をまだあきらめていなかった。次に加盟各国の貿易担当大臣がつどったのは、2001年11月。場所は、カタールの首都ドーハだった。これは絶好の舞台設定と言えた。閉ざされた扉のうしろでの交渉にけちをつけたがるデモ隊も、はるか遠いペルシア湾の小国までは押しよせてこられなかったからだ。先進国はこの交渉を"開発ラウンド"にすると約束した。言葉を換えれば、いままでのラウンドが抱えていた不均衡を是正し、開発の視点を強化した新たな貿易体制をつくりあげると、先進国みずからが宣言したわけだ。しかし、途上国側はためらいをみせた。もしかしたら、今度も不公正な貿易協定をつかまされるのではないか? 前回と同じく、経済状況をさらに悪化させられるのではないか? 交渉のテーブルについたが最後、無理やり腕をねじり上げられ、自分たちの利益と相反する新協定に調印させられるのではないか? ドーハでの約束に、途上国側は懐疑的だった。そして、現在までの交渉経過をみるにつけ、彼らの懐疑心には根も葉もあったのだと思えてくる。

 先進国側が農業補助金の削減をこばんだため、交渉は暗礁にのりあげた。実際、2002年にアメリカは新農業法を成立させ、補助金の額をおよそ二倍にふやしたのだ。2003年9月、加盟各国の貿易担当大臣はメキシコのカンクンに集まった。カンクンとはマヤ語で"蛇穴"を意味し、交渉の場はまさに"蛇穴"を思わせる修羅場となった。

 当初の予定では、閣僚たちは現在までの進展状況の評価だけをして、あとは現場の交渉担当者たちが"開発ラウンド"をまとめあげる手はずだった。しかし、先進国側は農業補助金にかんしても、途上国側が関心を示すいかなる課題にかんしても、相変わらず譲歩をこばみつづけて──約束の履行をこばみつづけて、そのくせ途上国にたいしては関税の引き下げだけでなく、欧米が輸出したいと望む商品とサービスの市場開放を要求したのである。先進国側はさらにまた新たな要求を突きつけ、それでもなお、"開発ラウンド"の言葉をつかいつづけた。言葉がうわべだけであることは明白となり、この新ラウンドがはらむリスクも明白となった。こんなものを成立させたら、従来の不均衡を放置した場合よりもっと途上国の状況は悪化するかもしれない‥‥。総会の四日目にして話し合いは決裂した。貿易交渉がこれほどの混乱のうちに打ち切られることは、かつて一度もなかった。

 次に貿易担当大臣が集まったのは、2005年12月の香港だ。"開発ラウンド"の総まとめとるはずだったこの総会は、醜態をさらすこともなければ、成功とよばれることもなかった。WTO 事務局長のパスカル・ラミーが事前の期待を小さくおさえておいたため、世界貿易の発展にほとんど効果のない合意でも、現状においては最善の収穫が得られたとみなされたのだ。

 当時は、意義ある提案をすることより、マスコミ対策のほうに力が注がれた。例えば、巨額な農業補助金によって世界最大の綿花輪出国となっているアメリカが、アフリカ産の綿花に国内市場を開放するというニュースは、マスコミを通じて大々的に宣伝されたものの、アフリカが利益を得られる見込みはほとんどなかった(巨額な農業補助金は、アメリカを綿花の大量輸出国にはしても、綿花の大量輸入国にはしない)。

 多国間貿易自由化交渉の時代は、終わりを迎えつつある(少なくとも小休止に入りつつある)。途上国がようやく幻影を捨て去っただけでなく、先進国にも保護主義の気運が高まっているからだ。いわゆる"開発ラウンド"から何が生まれようと──何も生まれない可能性もあるが──それは、"開発"の名にふさわしいものではないだろう。途上国にとって公正な貿易体制がつくられることもないだろうし、途上国の開発が促進されることもないだろう。先進国が途上国に課す関税は、同じ先進国に課す関税よりも、はるかに高いままだろうし、先進国は巨額の農業補助金をバラまきつづけ、いつまでも途上国に多大なる犠牲を強いるだろう。

 今日における真の危機は、"開発ラウンド"で何が合意され、何が合意されないかということではない。改革の規模がこれだけ小さくなれば、当然改革の影響も小さくなる。最終的にどんな合意が形成されようと、もたらされる損害は微々たるものだろうし、得られる利益も微々たるものだろう。真の危機は、ドーハで提示された課題がすべて解決され、もう次の"開発ラウンド"の必要はなくなった、と世界が思いこんでしまうことだ。"開発ラウンド"がなくなれば、貿易交渉はもとの姿に戻るしかない。激しいやりとりの末に先進国側が利益のほとんどを懐に入れる、というもとの姿に‥‥。

 

‥‥利潤VS生きる権利

 この章は、いかにして利権集団がグローバル化に干渉を試み、より多くの基本的価値を危機にさらしてきたかという点を明らかにした。あるひとつの分野──知的財産──が貿易と結びつけられ、ほかの分野──労働基準など──が結びつけられなかった事実は、今日のグローバル化の方向性について多くを物語っている。欧米の貿易交渉担当者の仕事は、農業補助金と非関税障壁を守りつつ、自国の産業界のためによりよい待遇条件──例えば、市場アクセスの拡大や知的財産権の強化──を勝ちとることだ。交渉担当者の辞書に"公正"の文字はない。交渉担当者が心にかけているのは、農業補助金の撤廃で大きな恩恵を受ける欧米の納税者ではない。物価の下落で大きな恩恵を受ける欧米の消費者でもない。温室効果ガスの排出削減で大きな恩恵を受ける地球環境でもない。救命治療薬の入手性向上で大きな恩恵を受ける貧困層でもない。

 交渉担当者の望みは、生産者の役に立つこと。そして、交渉担当者の仕事は、できるかぎり少ない代償で、できるかぎり大きな利益を得ることなのだ。環境や健康や科学の進歩に配慮しようというインセンティブを、交渉担当者はまったくと言っていいほどもっていない。交渉担当者の立場からすると、環境を考えるのは環境大臣の仕事であり、健康を考えるのは厚生大臣の仕事であり、科学の進歩を考えるのは文部科学大臣の仕事である。つまり、環境や健康や科学の進歩に大きく影響する議題が話し合われているのに、交渉のテーブルをみわたしてみると、それらについて配慮する者はひとりも座っていないわけだ。

 貿易大臣たちは密室で交渉を進める傾向がある。また、長くて複雑な貿易協定は、利己的な条項がまぎれこむ余地を与える。しかし、今まで述べてきた基本的な諸問題──例えば、製薬業界の利潤と生きる権利とのトレードオフ──は、誰でも簡単に理解できる。もしもエイズ治療薬の入手性にかんして、全世界規模の市民投票が行なわれれば、先進国でも途上国でも、製薬業界とブッシュ政権の提案は圧倒的多数で否決されるはずだ。

 民主主義をめぐる議論の中心には、つねに基本的価値観の対立が存在する。グローバル化反対派が指摘するのは、グローバル化の方向性が怒意的にゆがめられた結果、いくつかの重要課題の意思決定権が、各国の議会から取り上げられ、民主的とよぶのはおこがましい閉鎖的な国際組織にわたされてしまった、という点だ。利権集団の声だけが高く大きく響き、民主的プロセスによる"抑制と均衡"も機能しない環境下では、当然のように、大多数の意見をまったく反映しない決定が下される。グローバル化を改革する際の最も手強いハードルは、意思決定における民主主義度を高めることだろう。多様な価値観と狭隘な企業利益が対立したときに、前者が勝つ確率が高くなっていけば、改革は成功したと言っていい。‥‥

 


‥‥民主性の欠如
わたしは本書で、(先進国も途上国も)グローバル化にもっとうまく対応するすべを学ぶべきだと論じてきた。同時にわたしたちは、貧しい国々に、そして豊かな国の貧しい人々に、さらには利益やGDP を超える価値にもっと気を配って、グローバル化をもっとうまく機能させるすべを学ばなくてはならない。問題は、ここまでのグローバル化の営まれかたに民主性の欠如が認められることだ。ゲームのルール作りとグローバル経済の運営を託された国際機関(IMF 、世界銀行、WTO) は、先進工業国の利益のために、もっと正確に言うなら先進国内の特定の利権(農業、石油大手など)のために動いている。

 過去二世紀のあいだに、民主主義は資本主義の暴走に歯止めをかけるすべを学び、市場の力の向きを調整したり、勝者を多く敗者を少なくするようはからったりしてきた。その学習効果はとてつもなく大きく、先進国に高い生活水準をもたらした。1800年の時点では、とても想像がつかないほどの水準だ。

 しかし、国際レベルでは、グローバル化をうまく機能させるのに必要な政治機関をつくることに失敗してきた。うまく機能させるというのは、グローバル市場経済の力で、富裕な国の最も富裕な層ばかりではなく、世界の大多数の人々の生活が改善されるよう仕向けるということだ。現行のグローバル化には民主性が欠如しているので、暴走に歯止めがかかっていない。それどころか、これまで何度も指摘したように、市場経済に歯止めをかける国家単位の民主主義の機能が、グローバル化によってきびしく制約されることさえあった。

 グローバルな機関の必要性は、かつてないほど高まっているが、そういう機関にたいする信頼性や、そういう機関の正当性は、そこなわれてきた。ここ10年間、IMF が危機管理の失敗をくり返してきた事実は、決定的な打撃だ。そのうえ、IMF が高圧的に、途上国の市場を投機的な資本流入にたいして開かせ、その数年後には、資本市場の自由化は成長ではなく金融不安につながる可能性があると渋々認めたことも、失望感をあおった。そして、金融市場を不安定にするような方針をごり押ししておきながら、世界的な金融不安の根本原因のひとつである準備金制度にかんしてIMF はなんの措置も施さなかった。貿易の最前線での無策という点では、WTOも引けをとらない。2001年11月、ドーハにおいて、前回のラウンドの貿易交渉が公正を欠いたことを認めながら、先進国は結局、開発のためのラウンドにするという約束を実質的に反古にした。

ある意味では、国際機関そのものに罪はない。機関を運営しているのは、アメリカとその他の先進国だ。機関の失敗は、そういう国々の政策の失敗だと言える。冷戦の終結にともなって唯一の超大国になったアメリカは、全世界の経済および政治の体制を、公正さと貧者への配慮の原則にもとづいて再構築する機会を与えられた。しかし、共産主義の対抗勢力がなくなった今、世界の体制を自国や多国籍企業の利益にもとづいてつくりかえる機会をも与えられた。残念ながら、経済にかんして、アメリカは後者の道を選んだのだ。

 国際機関にすべての罪を着せられない──責任の一端は機関を治める政府にある──のと同様、政府そのものにもすべての罪を着せるわけにはいかない。責任の一端は有権者にもある。わたしたちは日増しに強くグローバル経済の影響を受けていながら、依然として、不合理なまでに局地的なものの考えかたをする。国内で失われた一人分の職のほうが、国外で得られた二人分の職よりはるかに価値が高いと考えるのが、わたしたちにとっては自然だ。この局地的にものを考える癖の中には、自分たちの支持する政策が他の国やグローバル経済にどういう影響を与えるかをあまり考えないという態度もふくまれる。わたしたちは、自分の福利に直接かかわりのある事柄にしか注意をむけない。アメリカの綿花生産者は補助金制度から自分が得るもののことだけを考えて、世界の何百万人もが失うもののことには思いがおよばないのだ。

局地政治から抜けだす
グローバル化をうまく機能させるためには、考えかたを変える必要がある。もっとグローバルにものを考え、行動しなくてはならない。今日、そういうグローバルな帰属意識をもつ人があまりに少なすぎるようだ。古い金言にあるとおり、すべての政治は局地的であり、また、ほとんどの人が局地的に生きているわけだから、グローバル化が局地政治のごく狭い枠組みで進められてきたのも意外なことではない。世界経済が相互依存の度合をどんどん高めていっても、局地的な思考がなくなることはないだろう。この局地政治とグローバルな諸問題の乖離こそが、グローバル化への多々ある不満の根源なのだ。